古くから良質のブドウの産地であった大阪府羽曳野市駒ケ谷。
昭和9年(1934年)頃、金徳屋洋酒醸造元〈現(株)河内ワイン〉の創業者、金銅徳一氏は、ヨーロッパから伝わった
醸造技術を活かしこの駒ケ谷でワイン文化を花開かせました。
現在、(株)河内ワイン 代表取締役専務金銅真代さんが、ある事情でこの会社の経営を引き継いだのは12年前のこと。
以後、そのバイタリティーと情熱で、河内ワインを大阪ワインの代表的ブランドに育てあげ、
そればかりか、幅広い人脈とネットワークを活かし、地域とともに盛り上がっていく活動に取組んでいます。
何事にも前向きにまず、「一歩踏み出す」ことを心がけているという真代さん。
ワインのようなふくよかな味わい深いお話を、お伺いしました。
やむなく突然、経営に関わることになったと
お聞きしました。
■金銅
そうなんです。
河内ワインの三代目の主人の元へ嫁いできたのが、
22歳のときです。
それから、20年余り主人は古い考えの人でしたから、
私はずっと専業主婦でした。
主人がちょうどこのワイン館の計画を練って没頭しているとき、
がんが見つかり、ワイン館がオープンして
しばらくして亡くなりました。
まさに突然でしたが、三代続いた河内ワインを
このまま終わらせるわけにはいかない。
次の日からいつもの通り営業できるように、がんばりました。
一年間は自分でも何をしていたか覚えていないくらい
無我夢中でしたね。
特に主人はこのワイン館を、
自分の子供のように大切にしていましたから、
なんとしても私がその思いを継いで、
子供たちにも継がせていきたいと考えました。
経営者としては、何もかもが初めてで大変だったのですが、
なんといっても、「私はお酒が飲めない…」というのが
一番の苦労だったかな(笑)。
でも自分のところの商品を説明するのに、
飲めないじゃ、務まらないと思い、
飲めないお酒でフラフラになりながら、
ワインアドバイザーの資格も取りました。
もちろん、今ではワインは大好きですし、
飲めないという先入観を忘れて
楽しく美味しく飲むことを心がければ、
飲めるようになるもんだと思いました。
実はもうひとつ困難がありまして。
人前でしゃべるのが大変苦手だったんです。
たくさんバスが来るんですよ。このワイン館に。
多くのお客様を前にして、
どうしたら上手くしゃべれるようになるのかを、考えましてね。
英語落語の先生の下へ習いにいきました。
元来古典芸能好きで、いまではフランス語落語もやってます。
最初は、お客さまの心をつかむ
話し上手をめざしてはじめた落語ですが、
今の仕事の関係でも、外国人とコミュニケートし
理解しあううえで、落語は大変役立っていますね。
高座名、「ロマネ金亭」は、桂三枝さんが名付け親なんです。
ワインを売るための苦労ももちろんありました。
当初どうしたらもっとワインが売れ、利益が上がるだろうかと、
考えに考え抜いたのが、手書きのボトルだったんです。
学生時代に絵画クラブに所属していたので、
多少の絵心もありました。
そこで、ワインボトル一本一本に手書きで絵を描いたんですね。
もうそれこそ、疲れ果てて倒れるくらい描いてました。
手作り感いっぱいのボトルが受けて、そこそこ売れたんですが、
醸造の先生にワインを評価していただこうと見せたら、
ボトルに驚かれて、
「こんなボトル、どこにもない」と
私の無謀さ(?)を誉めていただきました。
実は先生のお弟子さんが今うちの醸造長を
やっていただいており、これもいい出会いでした。
結局、いろんな苦労もありましたけど、
出来ない、無理、と思ったことでも、
ひとつひとつどうすれば出来るようになるかを考え、
思いついたらやってみる。これだと思います。
で、続けていれば目的がまた違って見えてきて、
楽しくなりますし、人とのいい出会いがあり、
好循環に回り始めます。
考えて止まっていたらだめですね。
京都の有名な住職から、「踏み出せばそこに道ができる」と教えて
いただきました。
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